昭和五十六年十二月十三日 朝の御理解
御理解第八十八節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれ いにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡
を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよという
ことである」
八十八節を頂くたんびに思うのですけれども、いよいよ真の信心を身に付けさせてもらって、それが子にも孫にも伝わっていく、いわゆる八十八節、広がりに広がっていく根本ともなる信心をお互い頂いておきたいと思うんです。
この御教えを頂いておってどんなにでも頂けるんでしょうけども、人に悪い、心ではどんなに思うておってもまあ顔だけはニコニコしておかなきゃいけないというふうにも頂けますよね。いろんな事があるけれどもね。そんたびに辛いとか、苦しいとか、腹立たしいとかっていう顔をするなよと、そういう事では家を治める事は出来ないぞというふうにまあ頂きますけども、合楽で合楽理念の勉強させて頂いておる人達はこれがいよいよ徹底して出来るという事だと思うんです。
ただ悪い顔を見せるな、ね。それこそ市松人形じゃないけれどもね、顔で笑ろうて心で泣いてといったようなものじゃないという事。もう心から有難いと思えれる。昨日の御理解なんかそうでしたよね。やっぱり十里の坂を登り切って向こうへおりたら安心じゃとおっしゃる、そういう安心のおかげを頂くためにはどうしてもその九里半、そして十里のそこの所を受け抜くという事は、本当に合楽理念に基づく真剣な稽古がでけとかなきゃ出来ません、ね。
馬鹿といわれて俺のどこが馬鹿か、叩かれて何の為自分を叩くかというて叩き合いになるといったようなものではなくて、その馬鹿といわれたり、叩かれたりする事が有難いというのですからね。そして、そこから先の世界、昨日のお話じゃないけれども、この寒空に寝巻一枚で外に放り出されてからね、分からせて頂いた事は、家ん中に住まわして頂いておる事、布団の中に寝ておる事がこんなにも有難いもんだという事が分かったというのですからね。いうなら鏡を立てて良い顔をせよとか、ニコニコしておけとかいうものじ
ゃなくてもうひとつ向こうにある御神意です。私、そこん所が頂けて始めて、いわゆる広がりに広がる、いうなら安心のおかげが広がりに広がっていくんだと思うんです。又、そういう根本的なものを踏まえての、例えば十三日会でなからなきゃならんと思うんです。 これは天地の親神様がもういよいよ合楽に頼んでおられる様な私はものだと思うですね。神の願いが成就する日としている。今までそれこそ世界の悪日のように言われておった十三日を、もう神愛の日だとして分かってくれよ、分からせよとなさっておられるその願いを合楽になさっておられるね。ですから、広がりに広がるという事は私共の信心もやはり広がりに広がっていかなければならんね。高められた上にも高められていかなければならんという事。ただ、こんな信心すりゃどーっと家が繁盛していくというだけじゃなくて、その信心内容も又広がっていかなければ本当の事じゃないと思うのですよね。
私共が、何十年間の過去の信心をただ成程、お参りをする、お取り次を頂く、御用をさしてもらう、おかげを受けるともうその意味、程度での信心が何十年間続いて、そしてまあ大きな国家的にも敗戦という大きな帰路に立った時に、私共は外地から引き揚げて帰って、丸の裸から生まれたのは合楽信心です、ね。そこから初めて今まで過去の信心というものを一掃した。今までの信心じゃいけなかった、駄目だとね。まあいうなればまあそれまでは鏡を立てて人に悪い顔を見せんという程度の事は出けとったでしょうけどね、どんな場合であっても有難いという答がでるような信心というのは、私はその頃からだったと思うです。
その一心発起させて頂いた、今までの信心では駄目だと思ったのが決して願いが大きいという願いではなかった。只もう只々、親に喜んでもらえ安心してもらいたいというだけだったんです本当は、小さい信心がね。
私、先日ある方に私が、今はもうそうじゃないけども、まああの親孝行、親を粗末にする人ほど私はふるふる好かんち言うて、粗末にする人後で聞きよったけんでなお当て付けたようにして言うたことでした。けど、今は違う。ね。もう本当にあの親を軽んじたりね、親に喜んでもらいたいというような一念のない人は信心は出けんと私。親に喜んでもらいたいね、そりゃもう時代遅れのような言葉ですけれどもね、親孝行のない人は金光様の御信心なわからんです。
だから私は思うた。この両親が、の為にいうならば海外までも働きに出たんですけれども、かえって裸で引き揚げて帰って、かえって苦労心配かけねばならんといったような事、もう目も当てられないと思ったですね。ですから、この親が生きておる間に喜んでもらいたい、安心してもらいたい、そしてこの両親が亡くなったらあくる日から又元の難儀に返ってもいいともう本当に実感という、それを思いましたですね。けれどもなら、親に孝行するとか喜んでもらう安心してもらうという事が、いかに神様の気感に叶うておったなあという事は、そこから本当の意味での信心が育ってきた事です、ね。次々、そしてもっと素晴らしい親を私は感じさせて頂くようになったんです、ね。
親教会がある、御本部様がありね、そしてほんなら今日の私とい者はね、親教会もなからなければ御本部もない、もう天地金乃神様天地の親神様のお心次第、お心任せ、その手にも足にもどうでもならせて頂きたいという願い他にはないです。
だから、ほんなら親教会に御無礼しておるとか御本部に対して尽くしてないかと、これは私なりこれは神様がね、させて下さるんですよね。なら、私がそういうふうにしてなら両親の喜びやら安心してもらいたいと思うて一生懸命信心さしてもろうた。ところが、ほならもう神様の仰せには背かれんという事になったもんだからね、両親が私に色々と申します時に、もう世界で一番大切といやあ、あんた方両親より他にないと私は、けれどもね神様の仰せには背かれんというのが今日の私の信心だから、さあそこん所をもう一押辛抱して、さあ本気で一家中あげて信心の稽古さしてもらわな、というのがその時分の私のまあ言うなら理論でした、ね。
そいが段々こう垢抜けしてきたというか、段々おかげを頂いてまいりましたら、神様が合楽に十三日会、いわゆる神様の願いが成就する為の足掛かりとして合楽を選ばれたという事になるんじゃないでしょうかね。親という観点が変わってきた。いわゆる高めに高められていった。これから先はもう広がっていく以外にはない。いうなら八十八節である、ね。皆さんの信心もやっぱり絶対の所に焦点が置かれてその絶対のものもです、やっぱりいよいよ信心内容も高められていかなければならないという事です、ね。
合楽にかけられる天地の親神様の願い、そういう願いをこうつまびらかに説明をして頂くわけなんですね。合楽理念はそこん所を解くわけです。為には、いうなら天地日月の心になるより他にないぞと解くわけです。その天地日月の心もかく頂きかく実行していくという気になると、誰でも実行でけるぞという事なんです。天地人一如の世界、天地の親神様の願いを願いとしての信心になっていく、そういう信心がいよいよ大きく力強くなっていく事によってです、世界万国津々浦々に広がっていくその基礎というものがですね、いよいよ本当なものというか本格的な祈りという事、ね。そういう神願、いわゆる神様の御神願というものを受けて立たせて頂くという所に合楽の信心があると思うです。
教会だけが、又教会長だけがその願いに立つというのではなくて、信奉者の皆さんも打って一丸となって神願成就の為のいうならば御用にお使いまわしを頂こうとね。世界中に、いうならば十三日会を神願成就の日として大切に、世界の人々がこれを頂いていく、御粗末もあろう、御無礼もあろうけれども詫びれば許してやりたいのが親心と仰せられる、いうなら放生会の精神、放生会の心そういうものがね、世界中に行き渡ってそれがしかも実験でけ実証でけていくという実をねあげてまいりましたら、いやあげてまいりません事には、いかに神愛いわゆる一切神愛とか十三日を申しましてもそれは空念仏だけの事に終わりましょう。
いうなら御縁を頂いた者がね、例えば今日の八十八節ということをです。ただ、色々な問題があるときにまあ、悪い顔を見せんというような事で金光様とおすがりするのでなくてです、本当な事が分かったらそういう腹が立つとか情けないとか思うような事がある中にも、限りない神願が含まれているのであり神愛の表れであるという事を根本的に分からせて頂いての信心にならなければならん。
合楽理念はそういう根本的な所を解くのですから、それをやっぱりお互いが一人一人分からせてもろうてね、心ではどんなに思うても顔だけはにこやかにというんじゃなくて、心の底から有難いと言えれるような信心を根本にしてしかもその根本な心がね、私が親より大きな親と心を広げていったように、そういう信心も広がっていかなければ私は、八十八節という広がりに広がっていくという事にはならないと思います。どうぞ。